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製造業からWeb業界へ転進──藤川真一(えふしん)が追い求める「エンジニアが主役」の世界とは

7月にBASEのCTOを退任し、新たにEVP of Developmentに就任した「えふしん」こと藤川真一さん。慶應義塾大学大学院でメディアデザインの研究員も務めている。コードも書くし、マネジメントもするし、メディアデザインも学ぶえふしんさんのWebテクノロジーとの出会いや、技術を使ってよりビジネスを高みに引き上げるきっかけとなったWeb2.0の衝撃について語ってもらった。

えふしんさん

Profile

藤川 真一(えふしん)氏

芝浦工業大学卒業後、FA装置メーカー、Web制作のベンチャーを経て、2006年にGMOペパボへ。ショッピングモールサービスにプロデューサーとして携わるかたわら、2007年から携帯向けTwitterクライアント『モバツイ』の開発・運営を個人で開始。モバツイ譲渡後、2012年11月6日に想創社設立。モイ株式会社にてツイキャスに携わった後にBASE株式会社のCTOとしてジョイン。2019年7月からEVP of Developmentに就任。2017年9月に慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科博士課程を単位取得満期退学、2018年1月博士(メディアデザイン学)取得、同学科研究員。

鉄を切り、回路を組み立てる。製造業の現場で学んだこと

高校1年生の時に初めてパソコン通信をやってみた。それがネットへの関心のきっかけになりました。パソコン通信にハマって、電話代が月に20万円。これは親に怒られますよね(笑)。パソコン通信は大学に入ってから再開しますが、あくまでも趣味。通信やネットワークを専門にしようとは思いませんでした。

むしろ当時はロボット制御に関心があって、就職もソフトウェア制御でモノを動かすような仕事、できたらロボットのマンマシーンインターフェースに取り組めるようなところがあったらいいなと思っていました。結局、最初の就職先は、産業用のFA(ファクトリーオートメーション)の一分野、自動ハンダ付け装置の開発をしている会社になりました。

多くの会社においては就職すると、大卒者は実装を経験せずに設計部門などに行くことが多いのですが、いきなり現場に配属されました。まずは「ものづくりを覚えろ」と、2~3年は生産の現場で仕事をしていました。鉄を曲げたり切ったり溶接したり、電気回路の配線をしたり、装置据付のために客先に出張して、そこで問題解決したりとか。現場でいわゆるものづくりのイロハを教わったんです。

設計だけじゃなくて、実際にモノを作る。それはすごく楽しかった。これは、その後プログラマになって、Webアプリケーションを書くようになってからも、基本的には自分でコードを書くという意識を捨てていないことの理由になっていますね。Web開発者はやはり自分でプログラムを書いた方が楽しいじゃないですか。

えふしんさん

就職して2年ほど経った時に、新製品開発のプロジェクトに配属されました。2つ上の先輩ですごく優秀な人がいたんですが、その人が新製品開発プロジェクトに抜擢されて行く時に僕もセットで連れて行ってくれたんです。先輩は機械工学科の出身、僕は電気工学科出身。2人でタッグを組んで、新製品を開発しました。

抜擢されるきっかけになったのは、今でこそ、CAD/CAMがあってデータを入れれば、その通りに材料が切れるんですが、当時の現場では自分たちで、まだ手動で切っていました。ただ、世の中にはコンピュータ制御の自動化マシンも登場していて、会社でそれが導入されることになりました。

NCプログラミングで使われる座標データに「Gコード」というのがあるんですが、そのデータを再利用するためのプログラムを自分で勝手に作り、自分のノートパソコンに会社に持ち込んで作業の効率化を図っていました。

そのうち、僕が「会社ではパソコンに一番詳しい」ということになっちゃって(笑)。その会社には4年半いましたが、仕事で大企業の製造現場に行ったり、海外出張も多く、すごく面白かった。でもWebテクノロジーとの出会いが僕のキャリアを大きく軌道修正することになりました。

Web1.0世代の活躍に「俺でもできるんじゃないか」と刺激を受けた

Webテクノロジーとの出会いは、ハンダ付装置のコントローラーのプログラムをWindowsで開発していた時です。当時のWindows NT 4.0にはパーソナルWebサービスという体験版のWebサーバーが入っていて、それをイジっているうちに、装置の稼働状況をネットワーク越しに見えるようにする仕組みのアイデアが湧いてきた。

これは当時開発していた新製品の規格外にある、完全な僕の趣味なんですが、それを作るには、HTMLが必要になるんですよ。でも、当時の僕はHTMLが全然わからなかった。そこで独学で勉強し、デジタルハリウッドの社会人向けのWebプロデューサーコースに通うようになりました。

土曜日だけの授業ですが、学費が半年で70万円ぐらいかかったんです。仕事で必要な知識だったので、「学費を出してもらえませんか」と会社に相談してみましたが…。そこで出してもらっていたら、僕は会社を辞めなかったと思うけど(笑)。まあ、ここが分岐点でしたね。

えふしんさん

週末は学校の授業に出て、そのままお客さんのところに出張にいったりして、家に帰れない日も多かった。でも、そこで出会ったWeb業界の講師たちと話していると、いろいろ刺激を受けました。当時はいわゆるネットバブルの時期で、ビットバレーがテレビでもてはやされていた。

ただ、何か錬金術みたいに見えて、インターネット産業が社会に影響を与えるという話はピンとこないんですよね。でも、若くてジーンズ履いた人たちが、「インターネットで世界を変える」とかって言ってるわけですよ。これを見ていて「なんかこれ俺でもできるんじゃないの」って(笑)。

後に「ナナロク世代」と呼ばれる、1976年前後の生まれの人たちがインターネットサービスの作り手の当たり年として話題になります。でも僕は1973年生まれだから、生まれたのがちょっと早すぎたんですよね。

高校の時からパソ通をやっていて、コミュニティやネットワークに対してずっと興味はあったんですが、まだビジネスとしては成立していなかったので、就職は製造業という流れでした。でも、やっぱりネットは好きなんですよね。デジハリで知り合った人から誘いを受け、Web系の会社に転職することになりました。

技術を使ってよりビジネスを高みに上げる─Web2.0の衝撃

Webの受託開発と動画配信の管理システムを、自社独自の技術で開発する会社でした。ただ、まだ光ファイバーはおろかYouTubeが世に出る前に作っていたので、明らかに時代的に早かったんですね。

でもそういうシステムをカスタマイズしていく中で、僕の力がなかったせいもあるんですけど、お客さんへの説得が結構大変なんですよ。受託責任がありますから無料でやるわけにはいかないので、なかなかやったら良いと思うこともできない。

そのうちにもう少し好きにやりたいというか、自分がかけた時間を自分が携わっているサービスの価値の向上に使いたいという思いが膨らんできて、2006年にpaperboy&co.(現GMOペパボ)に転職したんです。

当時の僕は「作って納品したら終わり」という、そのサービスが結果的にお客さんのところでどうなったかもよくわからないままの仕事に対して、「エンジニアに主役感がない」と思っていました。

エンジニアとしてもっとポジティブに、プロダクトやサービスに関われるようになりたい。だったらやはり自社でWebサービスをやっている会社で仕事をしたいなと。当時、たまたまmixiで繋がっていた家入一真さんに相談して、彼の会社にお世話になることにしたんです。

ペパボではオンラインショッピングガイド「カラメル」に立ち上げから関わりました。当時はWeb 2.0というムーブメントがあって、その技術革新を取り込みながら、面白いショッピングモール作ろう、という雰囲気でやっていました。最初は開発で入ったんですが、途中からプロデューサーになり、マネージャ会議にも出させてもらうようになりました。

Web 2.0は技術者にとって、大きなインパクトでしたね。当時は「エンジニアの逆襲」とも言われていましたから。要するに「テクノロジーはプロダクトに対しての影響がものすごく大きいですよ」ということを示した。Ajaxやフロントエンドの技術の進化、データがすごく大事だとも言われていましたね。

えふしんさん
その後、Web2.0という言葉は廃れ、今では「Web 2.0って結局意味なかったよね」なんて言われることがあるんですけど、それはちょっと違うと思う。データが大事という気づきは、その後のビッグデータや今のAIの流れにも普通に入っているし、いまや当たり前の考え方になっている。

Web2.0は「これを真似すれば成功する」ということではなく、当時、成功している会社がとっているパターンのことだったんですよ。だからそう簡単には真似できなかった。

それでも、いわゆる「ビジネスモデルで上手くやりましょう」とは違い、「技術を使ってよりビジネスを高みに上げる」ということを示したという点では、Web2.0が僕らに与えた衝撃は大きなものでした。

#02 趣味から生業へ──藤川真一(えふしん)が「モバツイ」を通して見えた自分の限界と可能性