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他流試合の荒波に揉まれ、美的かつ分析的で現実主義者の心性を鍛えよ──MIT石井裕教授のイノベーション哲学

デジタルの世界をピクセルのようなバーチャルなものではなく、実体がある、触れることができるインターフェイスによって変革した「タンジブルビッツ」などの研究で、世界的に知られる石井裕氏。エンジニア魂を根底から揺さぶる、速射砲を繰り出すようなエネルギッシュな講演でも、数多くのファンを魅了している。2019年もまた、私たちを前にテクノロジーの未来を語りながら、それ以前に私たちが持つべき美学や哲学についての本質的な問いをぶつけてきた。

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Profile

マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボ教授 石井 裕氏

1956年生まれ。北海道大学大学院修士課程修了。マサチューセッツ工科大学教授、メディアラボ副所長。88年よりNTTヒューマンインターフェース研究所で、CSCWグループウェアなどの研究に従事。93年から1年間、トロント大学客員教授。95年マサチューセッツ工科大学準教授。メディアラボ日本人初のファカルティ・メンバーとなる。2006年、国際学会のCHI(コンピュータ・ヒューマン・インターフェース)より、「タンジブルビッツ」の研究でCHIアカデミーを受賞。2019年には「タンジブルビッツ」「ラディカルアトムズ」を含む長年の研究と世界的な影響力を評価され、CHIから生涯研究賞 (SIGCHI Lifetime Research Award) を授与される。

日本の「心地よさ」に満足していたら、真の創造は生まれない

よく「独創的なアイデアを生み出すことは、これからの日本でも可能でしょうか」みたいな質問を受けることがあるんですが、はっきり申し上げますが、「日本では」とか「日本人だから」てきるとか、できないとかはないんです。それなりの環境が揃っていれば、どこでもできる。誰でもできる。ただはっきりしているのは、根本的に飢餓感がなかったら何もできないということ。

よく私は父のシベリア抑留体験を話しますが、ラーゲリ(収容所)の中で極限状態に置かれると、人は目の前のものを食えるかどうかを瞬時に判断できるようになるのだそうです。食えると思ったら盗んでも即食らいつく。そういう精神的・身体的な飢餓感というものが、その後の創造につながるのです。

例えば、ベトナム戦争末期にサイゴンが陥落して命からがら逃げてきたボートピープル。その時の赤ちゃんだった男の子が、米国西海岸で皿洗いしながら家族を支え、高校を1番で卒業して、MITにアプライしてきます。彼の登ってきた山の標高はすごいし、僕なんかは全く敵わない。

こうした劣悪な環境から這い上がってきた人たちの強さというのは強烈です。それは僕にもないし、ほとんどの人にない。そういう人たちが世界のトップと戦っているんです。

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その点、日本はある種「不幸な国」で、満ち足りている。水もあるし安全もあるし、Wi-Fiもあるし、コンビニでおでんをいつでも食べられる。日本語も通じて語り合える友達も恋人もいる。本当にコンフォトゾーン(快適な場所)ですよね。そんな満ち足りた環境に浸りきっていてい、本質的なイノベーションができないはずはない。

しかし、戦後の日本が豊かになったために、そういう飢餓感を持って、海外雄飛、他流試合、異種格闘技をやる人が少なくなってしまった。あえて、アンコンフォタブルな(不快な)環境に身を投じ、自分を鍛えるようなカルチャーが薄くなってしまった。その意味で「不幸」だと申し上げたわけです。

もちろん、身体的な飢餓はなかなか体験できない。けれども、想像することはできる。例えば小説の世界。『永遠のゼロ』に描かれた特攻隊員の不条理、野坂昭如の『火垂るの墓』の戦争孤児たちの世界。それを読んで、想像し、自分に内面化して、泣くことができるか。そういう訓練を重ね、感性を養うしかないのです。

前陣速攻で打ち返される、問いと答えの応酬が人を鍛える

私が毎年、日本に戻ってきて講演をするのも、そうしたコンフォートゾーンに甘んじている若者たちを焚き付けてやろうという思いがあるからです。極めて小さいパーセンテージですが、本当にそれが分かって、その晩眠れなくて、翌朝Twitterで「わかりました。これからこうします」って答えてくる人はいます。

しかし、私が「タンジブルビッツ」や「ラディカルアトムズ」のデモを見せて「何か質問ありますか」っていうとシーンとしている。こんなに一生懸命デモしたんだから何かあるでしょって突っ込むと、「MITにはいま学生は何人いますか?」といった、Google Search すればすぐ分かるような全くつまらない質問しか出てこない。

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卓球の戦術でいう「前陣速攻」ご存知ですね。ボールがバウンドして頂点に行く前に叩く。ただし単に跳ね返すだけでなく、ボールにスピンをかけることもある。いわば知的なスピンで、相手の意表を突く。それを受けてまたラリーが続く。それがダイアログ、ディスカッションの醍醐味なわけです。

ところが、私が経験した日本の大学でのほとんどの質問は、質問する前から完璧にその答えが想定できる。予定調和なんです。なぜかというと、日本の学生たちは、正解が存在することが保証された受験問題しか解いたことない。

オープンクエスチョンに直面すると、ビビってしまうんですね。間違えたら嫌だから、失敗したらカッコ悪いから。こうして彼らは私の話から何を学んだのだろうか。学んでいない。学んだとしてもそのことを言及できない。これは私にとって、とても悲しいことです。

エンジニアにも、社会的正義の観念や詩人の感性が不可欠だ

私はこれまでも発明や発見、創造やイノベーションの本質を語るために、短いフレーズを造語してはそれをTwitterや講演で広め、人々をインスパイアしてきました。最近はこれらの集大成として「Be Artistic and Analytic, Be Poetic and Pragmatic.」とよく言っています。

アートも分析も、詩も実用性もそれぞれは別の言葉であり、混ぜることはできません。しかし、それが同時に存在することはできる。こうした立ち位置を徹底するためには、例の「バベルの塔」のスパイラルを高速で周り続けなければならない。間違っても一つだけを中心にしたら、なかなかその先には行けない。

よく「これからのエンジニアはどうあるべきか」という質問も受けるのですが、エンジニアと限定した段階で話は終わりです。エンジニアリングだけでできることってすごく限られている。逆にとんでもないことできちゃう。だからこそ、エンジニアの行動には今何をしなければならないのか、という社会的正義や社会的倫理の観念が伴わなければならないのです。

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例えば、アナリティカルにデータで積み上げて、論理的に未来を予測することはできるかもしれない。しかし、その結果だけで人々のハートをわしづかみにして、共振させることが果たしてできるだろうか。

私たちが抱く社会的な正しさ(ソーシャル・ジャスティス)という観念は、数字じゃなくて、データで証明するものではなくて、根本的には美的な美しさ、倫理的な正しさ、何がエレガントで何がグレイスフルだと考えるかという私たち自身の哲学に裏付けられていなければいけないと思うんです。

言いかえると、誰もが多言語を自由に操る学際的クリエイターにならなければならない。各人が、アーティストとサイエンティスト、詩人とプラグマティスト、両方の感性を持っていなきゃいけない。

「バベルの塔」の伝説は、かつて人類はみな共通言語で喋っていたけど、神に近づこうとタワーを作ることを企てるに至って、神は不遜な人類に怒ってタワーを破壊し、その時から人々は共通の言語を失った、というものです。

でも現代の我々はそれを取り戻す。そのために、各人の中にアートもサイエンスもデザインもテクノロジーも全部なければいけない。それぞれの言葉を理解し、優れたアイデアをどんどん翻訳し、ぐるぐる回しながら高みを目指す。これはもちろん、言うは易く行うは難しいことなんですけど、それを私は目指したいんです。

単に、そのプロダクトの効能として何パーセント効率が上がったということに一喜一憂するだけでなく、本当に社会に意味があるものを考え、実装し、喜んでいただいて、死ぬ時に「これをやってよかった」、あるいは100年経った時に「あの人はこれやってくれてありがとう」って墓参りに来てもらう。それで十分じゃないかと思うんです。

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