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ネットの向こう側ではなく、目の前にユーザーがいて喜んでくれることが嬉しい──増井雄一郎の原点

飲食店向け予約サービス「トレタ」創業者の一人であり、CTOを務めてきた増井雄一郎氏は、2018年にトレタを卒業。フリーランスの技術アドバイザーとして、IT業界にさらに深く関わろうとしている。自分の技術で人が喜ぶ。ネットワークを介して人が繫がる。コミュニティの中で人々の才能が花開く──。
そのプロセスを縁の下、いや最前線に立って目立ちながら楽しむことが、増井氏の基本姿勢だ。興味のある人ならどこへでも会いに行き、繋がっていく。そのアグレッシブな姿勢の原点は、どこにあるのだろうか。

増井雄一郎@masuidrive氏

Profile

増井 雄一郎(ますい・ゆういちろう)氏

1976年、北海道生まれ。大学時代に起業。2003年にフリーランスとなり、Ajax、Ruby on Railsなどを使ったWEBアプリ開発や執筆を行なう。2008年に渡米し、中島聡氏らとともにアプリ開発会社を立ち上げ。帰国後は、Appcelerator「Titanium Mobile」のテクニカルエバンジェリストとして活動。2013年から飲食店向け予約台帳アプリを開発する「トレタ」のCTOを務めるも、2018年9月に退職。Bloom & Co.のCTOと同時にProduct Founderとして、企業のプログラム開発・エンジニア組織開発などをサポートしている。Twitter: @masuidrive

ゲームを開発するためのツールを作るのが好きだった

コンピュータとの出会いは中学3年生の時ですね。部活は科学部に入っていたんですが、部室にMSXの古いパソコンが置いてあったんです。マニュアルに書いてある通りに入力すると簡単なゲームが作れる。それが面白くて遊んでいました。

自分専用のパソコンは高校の入学祝いで買ってもらいました。これもMSX。その頃はまだネットもない時代ですが、パソコン向けの雑誌がたくさんあって、それを見ながらプログラムを入力したりしていました。

私はすごくゲームが下手なので、敵を弱くしたり、自分を無敵にしなくちゃならない。いわば“チート”する必要がある。そのために入力したゲームを自分で変更しながらプログラミングを覚えていきました。高校は工業高校で、COBOLやFORTRANの授業もあるにはありましたが、プログラムを趣味で書くような人間は、私以外には2人ぐらいしかいませんでした。

学校では寝て、家に帰ると夜中までパソコンに向かう。私のプログラミングの基礎は、ほとんどが本や雑誌で読んで独学したものです。高校2年生ぐらいになると、自分で書いたプログラムを雑誌に投稿してたりしました。

増井雄一郎@masuidrive氏


プログラミングを覚え始めたばかりの中高生って、大体ゲームのプログラミングを書くんですよ。ただ私はその頃からゲームを作るツールの方に興味がありました。昔「大戦略」というストラテジ系のゲームがあったんですが、そのオフィシャルなマップエディターのコンテストに応募したりしました。

高2の夏休みには、アルバイトでエンジニアみたいなことをしていました。家の近所に写真の現像や引き伸ばしをするDPEチェーンがあって、そのレジ打ちのバイトに応募したんです。履歴書に「好きなこと:パソコン」と書いたら、店舗の裏にあるチェーン店本部で仕事をすることになりました。

20店舗ぐらいあるフランチャイズから、毎日日報がFAXで送られてくるんです。それをオフィスのパソコンに入力する。なにせネットがない時代なので、伝票はみんな紙でありFAXなんですよね(笑)。

その日報管理のソフトがすごく使いにくかったことが、私がソフトウェアエンジニアになる最大のきっかけになったと思います。自分の仕事を楽にしようと思って、勉強しながら、社内管理用のソフトを自分で書いてみたんです。

社長がそれに興味を持ってくれて、「そんなにソフトを書きたいんだったら、教材代は出す。自宅でも開発ができるように、パソコンをもう1台買ってやるよ」って。NECの9800シリーズ。当時、一式30〜40万円もしたパソコンです。夏休みのバイト代よりはるかに高いんです(笑)。

自分が書いたソフトで人が喜んでくれるのが嬉しい──高校時代の原体験

そのPCで在庫管理用や、顧客管理用の業務ソフトを書いて、バイト先のDPE屋さんで実際に使ってもらい、全店舗に展開するようになりました。C言語をメインに、dBaseというデータベースや表計算ソフトのマクロを組み合わせたようなソフトです。

当時、社内には他にソフトを書ける人材がいなかったので、とても重宝がられましたが、高校卒業後は、私は大学に進学します。写真屋の社長は本当に恩人で、大学4年生の時に私が会社を作る時には出資もしてもらいました。

高校生で業務ソフトを開発する機会なんて、めったにあることじゃないと思います。しかも、ネットの向こうとかではなく、ユーザーが目の前にいるということがとてもよかった。そのソフトで業務が改善すれば喜んでくれるし、バグがあればその場で怒られる。

増井雄一郎@masuidrive氏

自分がやったことが人の役に立つということが、実感として分かりやすい。今でも何か自分が作ったもので、人で喜んでくれることが嬉しいと感じるのは、その時の経験があるからです。大学生になってからも、フリーランスとしていろいろ仕事を受けていたんですが、だんだん回らなくなったので、大学4年の時に起業しました。ちゃんと社員も雇っていました。

ちょうどその頃、NTTドコモのiモードが登場したんですね。で、私の会社はiモードのサイトを作ることが、メインのWeb制作会社になりました。iモード仕様のHTMLを使って、ドコモ北海道の公式サイトを作ったり、結構大きな仕事をもらっていました。

私は大学生の頃にインターネットに出会ったんですね。大学は文系だったものの、情報処理概論のような授業が面白くて、その担当教授と仲良くなり、研究室の鍵を預かったんですよ。教授がいない時は自由に使ってくれていいからって。

大学に入学した1994年に大学がSINET(学術情報ネットワーク)に接続されたんです。大学にネットに詳しい人がほとんどいなくて、自分でサーバーを立てたり、先生方のコンピューターの面倒をみたり、といったことを1年生の時からしていました。

当時は回線速度が遅いから、プログラムのダウンロードに平気で6時間とかかかってたんですよ。そこで私は研究室に寝袋を持ち込んで、ダウンロードが始まったら机の下で寝て、ダウンロードが終了したらアラートが鳴るようにして、ほとんどパソコンと共に生活していました(笑)。

学生たちは情報処理の授業で分からないことがあると私に聞きに来るし、先生方もコンピュータの使い方が分からなくなると私を頼ってくる。そんなんで、学内の友人・知人が増えました。

インターネット元年は自宅サーバ構築術を公開。ホリエモンの会社でアルバイト

高校時代からパソコン通信をしていたので、ネットで人と知り合う楽しさは知っていましたが、それでもやはりインターネットの衝撃は大きかったですね。北海道大学がインターネットに繫がったという新聞記事を読んで、矢も楯もたまらず北海道大学に電話して、見学させてもらったことがあります。

あの頃は、WebブラウザはMosaicだったのかな。それと、たぶんあの時CU-SeeMe(リアルタイム遠隔会議を実現するソフトウェア)のデモも見ていると思うんですよね。ネットに繫がった世界中の人の顔を見ながら、チャットで話ができる様子を見た時はものすごく衝撃を受けました。

だけど高校生の私は、これが一般に普及するとは全く思わなかった。せいぜいオタクの趣味とか専門家の研究対象に止まるんじゃないかって。ただ、その後ガラケーでiモードが使えるようになったあたりで、これは劇的に変わるぞと思ったんです。モバイル環境でインターネットが使えるというのは、やはりすごいことですからね。

増井雄一郎@masuidrive氏


私が大学在学中に、1995年つまり「インターネット元年」がやってきます。日本でも商用プロバイダーが登場し、朝日新聞がasahi.comでデジタル配信を開始したりと、社会のあらゆる領域にものすごい勢いでインターネットが浸透していくわけです。

私は自分のサイトで、自宅サーバーを立てる方法を公開したりしていました。この種の情報は当時は少なかったから、堀江貴文さんから連絡もらったりしたこともあるんですよ。

堀江さんはその頃、雑誌に技術系の記事を書いていて、そこで私のホームページを紹介してくれたんです。「東京で会社をやってるからバイトしに来ない?」って誘ってもらい、リモートでバイトをしていました。「オン・ザ・エッヂ」のオフィスが六本木の一丁目の坂下にあった頃の話です。

私のホームページは、基本的には好きなバンドやミュージシャンのファンページみたいなもの。そこに集まる人たちとチャットしたり、オフ会をしたりしていました。もともと人とコミュニケーションするのは好きだったんですね。

でも、まさか40歳を過ぎた今でも、人を集めてパーティーやって、さらにその真ん中でDJしている自分がいるなんて、夢にも思わなかったですね(笑)。