パーソルグループとSky株式会社は、sightを通してエンジニアの自分らしいキャリアを応援しています

人と技術と事業を紡ぐ「プラットフォーム」。 その発想はこうして生まれた──IT批評家 尾原和啓

京都大学院で人工知能論を研究し、マッキンゼー、Google、NTTドコモ、楽天、リクルートなどで事業立上げ・投資を歴任してきたIT批評家・尾原和啓氏。バリ島をベースに人・テクノロジー・事業を紡ぐ尾原氏のビジネスの原型となった体験、インスパイアされた雑誌など、キャリア形成の原点を聞いた。

IT批評家 尾原和啓

Profile

IT批評家 尾原 和啓 氏

1970年生まれ。京都大学大学院で人工知能を研究。マッキンゼー・アンド・カンパニー、Google、NTTドコモ、楽天、リクルートなどで事業立上げ・投資に関わる。経産省対外通商政策委員なども歴任。現在はシンガポール・バリ島をベースに人・テクノロジー・事業を紡いでいる。著書に『ITビジネスの原理』(NHK出版)『モチベーション革命』(幻冬舎)など。

IT革命が始まった。情報は自ら獲りにいかなければ得られない

私が生まれた1970年というのは、日本はもとよりアジアでも初めての国際博覧会「大阪万博」のあった年。「人類の進歩と調和」がテーマで、技術革新で人々がつながり、世界が平和になるというメッセージがまだ素直に受け入れられた時代でした。同時に、インフォメーションテクノロジーの革命がまさに始まろうとしていた時代でもあります。

アップルの「Apple I」を世界で初めてのパーソナルコンピュータだとすれば、それが生まれたのは私が6歳の時。私も小学生5年生の時にシャープの「MZ80B」というマシンを買ってもらいました。当時としては画期的な8ビットのパソコンですが、それを起動するためにはテープでプログラムを読み込ませなければなりませんでした。

中学生になると、「ニフティサーブ」というパソコン通信が始まり、私も初期の頃から参加し、ネット上の人とつながる喜びを感じるようになりました。テーブルトークRPG(ロールプレイングゲーム)にも夢中でしたね。インターネットはまだなく、パソコンのパワーも貧弱でしたから、謎解きの課題やルールは手紙の郵送でやりとりするんですよ。

中学生の頃、よく読んでいたものに松岡正剛さんらが創刊した「遊」(工作舎・1971~1982年)という雑誌があります。アート、思想、メディア、デザインなどの情報を、ジャンルを超えて紡いでいく大変面白い雑誌でした。その編集スタイルは「The Whole Earth Catalog (WEC)」にインスパイアされたところがあったと聞いていました。

IT批評家 尾原和啓

1968年にスチュアート・ブランドによって創刊された、ヒッピーコミューンを支えるための情報や商品を掲載する雑誌ですが、私は古本屋で洋書のバックナンバーを探し出し、辞書片手に読みふけったものです。ちなみに「WEC」の後期の編集者たちが後に立ち上げたメディアが「WIRED」です。「遊」にしても「WEC」にしても、雑誌の中にこそ情報のリンクが貼られていた時代。それを辿りながら、知的興奮を覚えるような少年でした。

私たちの世代は、インフォメーションテクノロジーの革命に出会いながら、それを当たり前のもの、与えられたものとして受け取るのではなく、自分で頑張らなければ探し出すことができなかった、逆説的な意味で「幸福な世代」だと思います。
コンピュータゲームをしたいといっても、まずは自分でプログラミングしなければならない。最初は「 マイコン BASICマガジン 」に掲載されているようなコードを打ち込むんですが、すぐに飽き足らなくなって、当時、神戸の上新電機がコンピュータ好きの小中学生のたまり場でしたから、そこに出かけて情報交換をするんです。情報が足りず、それに飢えている世代だったからこそ、人とのつながりを求めていたんですね。

価格の差・情報の差が小遣い稼ぎになると気づいた中学生の頃

私がビジネスの原型のようなものに、関心を持ったのもその頃です。なにせ中学生ですから、本や雑誌を買うにも小遣いが限られる。そこで私は、大阪・難波の古書店で高く売られている古書のリストをメモして、それを神戸の地元の古本屋で探して、安く仕入れるんです。その差額が儲けになります。いわば「競取り」ですね。

IT批評家 尾原和啓

商売の源泉は価格の差や情報の差にこそあるわけですから、まさにビジネスの第一歩を、中学時代から歩み始めていたわけです。

大学生になると、もう一つのインフォメーションテクノロジー革命に遭遇することになります。当時の学生は試験前になると講義録のノートを貸し借りしたものですが、ノートを写すコピー機の利用料金がそれまで1枚100円だったのが、50円になり、10円になるという、情報取得コストの急激なコストダウンを経験しました。

そこで私は優秀な学生のノートや、過去の試験問題を集めて、それを学生たちにコピーさせるというビジネスを思いつきます。当時の京都大学は入学式で学長が「みなさん、これからは知のキャンパスで、思う存分迷子になりなさい」と祝辞を述べるようなところでしたから、授業には出ず、芝居をやったり、世界を放浪したり、アルバイトに精を出すような学生ばかり。

プラットフォームの重要性にあらためて気づいたのは、大学院生時代に遭遇した阪神・淡路大震災の時でした。私は震災直後から避難所の手伝いなどをしていましたが、混乱状態の中で人と物資の適切な配分が行われていないことに気づきました。そこでボランティアからの情報を一つに集約する情報センターを作り、人と物資を適正に配置できるようにしました。
これもまたプラットフォームの一種なんです。

「プラットフォーム」の可能性を切り拓く

これは大学院時代の研究テーマとも無縁ではありませんでした。大学院では人工知能や自律分散処理を研究していました。修論のテーマは蟻が群から食物までの経路を見つける際の挙動からヒントを得た蟻コロニーの最適化問題。いわゆる「アント・アルゴリズム」です。

蟻は餌を発見するとフェロモンの跡をつけながらコロニーに戻りますが、それが他の蟻たちにとっては、餌場情報の経路になります。最初はさまざまな経路があるなかで、そのうち最短距離が自然に選ばれるようになり、すべての蟻がそこに集中するようになります。

私はこのアルゴリズムを株式のポートフォリオ分析に使えないかと考えました。
当時から少し株の売買はやっていて、実利も兼ねてはいたんですが、いかんせん当時のコンピュータはパワー不足で最適解を見出した頃には、相場の情報が変わっている。これを使って株で儲けることは残念ながらできませんでした(笑)。

ただ、こうした学生時代の経験が、その後の社会人としての仕事に影響を与えたことはたしかでしょう。マッキンゼー・アンド・カンパニーの1年目にNTTドコモのプロジェクトに志願し、「iモード」立ち上げに参画したのも、ITビジネスにおけるプラットフォームの意義を感じていたからです。

IT批評家 尾原和啓

IT批評家 尾原和啓

その後、リクルートでは紙媒体からインターネット媒体への転換、GoogleではAndroidの立ち上げや新規事業企画、楽天ではイスラエルのViber社の買収と、インターネット電話ビジネスの立ち上げなどに参画します。それはいずれも、ITビジネスの中核を占めるプラットフォームの可能性を追求したかったからです。人を笑顔にするプラットフォームを作ることが、今でも私のテーマになっています。

斬新でかつ重要なテクノロジーは必ず、その後のビジネスや社会生活を変える力を持つものですが、その変化を決定づける要因は何か、その本質を見極めることはとても大切なことです。私自身、今はもうコードを書いていませんが、根っこのところではゼロから一を生み出すエンジニアであり、テクノロジーで世の中に新しいルールや、仕組みを作り出そうとするハッカーだと自認しています。原理原則を大切にするエンジニアにこそ、世界を変える力がある——そう信じています。

#02 エンジニアの本質はゼロから新しい原理を創造すること